2008年5月 9日
【最終回】長谷川等伯ってどんな人?ピエール: ボンジュール。 この前は狩野永徳(かのうえいとく)、 河鍋暁斎(かわ... [ 続きを読む ]
ピエール:
ボンジュール。
この前は狩野永徳(かのうえいとく)、
河鍋暁斎(かわなべきょうさい)について教えてくれてありがとう。
次に知っておくといい絵師は?
リンコ:
長谷川等伯(はせがわとうはく)かな。
安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した絵師だよ。
2010年春に京都国立博物館で展覧会が開催される
ことが既に決まってるんだ。
きっとその頃には大注目されるんじゃないかな。
今のうちに知っておいたらツウっぽいかも。
ピエール:
安土桃山時代といえば、華やかなイメージがするよね。
リンコ:
そうだね。安土桃山時代は、中世から近世へと移り変わる過渡期の時代。
美術作品もそのトレンドやテイストが変化する時期だったんだよ。
今日、長谷川等伯が高い評価を受けているのは
落ち着いた印象の「松林図」と
きらびやかなイメージの「智積院障壁画」という
まったく雰囲気の違う2つの作品の存在から
きているといわれているよ。
それはやはり、中世から近世へ変化する
時代が生み出したものだったんだ。
ピエール:
そうなんだ。
でも、安土桃山時代に活躍っていえば、
永徳もそうだったよね?
2人は同じ時期に活躍していたの?
リンコ:
そう、当時絵師のツートップだった2人は
まさにライバルだったのよ。
30代で能登から京へ上った等伯は、長谷川派を形成して、
永徳のライバルとして天下人の御用を激しく争ったの。
ピエール:
2人の才能が同じ時期にぶつかりあったんだ!
すごくドラマチックだね。
でも、ライバル同士だった2人は最後どうなったの?
確か永徳は48歳という若さで亡くなっていたよね。
等伯はどうだったの?
リンコ:
実は永徳が亡くなる直前に、
2人が激しく争ったというエピソードが残っているのよ。
それは永徳が中心になって行っていた御所の障壁画の仕事に
等伯が割りこもうとしたことからはじまったんだけど、結局永徳が勝ち取ったわ。
でも、そのわずか1ヶ月後に永徳は48歳の若さで急死してしまうのね。
一方、御所の仕事を獲得しそこなった等伯は、
永徳の死後、豊臣秀吉から、3歳で亡くなった秀吉の子・鶴松の菩提を弔うため
大きな障壁画の仕事を託されたの。
これによって長谷川派の勢力は、一時狩野派にとって代わったかに見えたんだけど
障壁画が完成した直後に、等伯の息子の久蔵が26歳の若さで亡くなってまったのよ。
その後、長谷川派では有能な後継者が育たず、
狩野派のように幕末まで続く大画派を確立することはできなかったの。
ピエール:
じゃあ2人の間に明確に決着というか
明確な勝ち負けがあったわけじゃないんだね。
リンコ:
そうね。そういうことになるかしら。
でも本来、芸術に優劣も勝敗もないと私は思うわ。
どんなものにも、そこにしかない魅力というのが備わっているものだし
結局見る者の感性が大きくかかわってくるもの。
だから、私はこうしてピエールに京都で触れられるアートについて
話をしてきたけど、やっぱり最後は自分の目で見て
美しいと感じたものをそのまま信じるべきだと思う。
そういう意味では、話をきいたあとに
すぐにそれを見に行くピエールは
すごく正しいアートの楽しみ方をしていると思う。
ピエール:
そうかな?
ぼくはただ、リンコの話を聞いているうちに
いてもたってもいられなくなるだけだよ。
そして、リンコがぼくにくれる
知識は、アートの世界を広げてくれるんだ。
アートを感じることも大事だけど、やっぱり知識があって見るのと
まるで何も知らないままただ漠然と見るのでは
感じ方だって変わってくると思うんだ。
リンコ:
もちろんそれはそうね。
ピエール:
そうさ。
だからリンコ、これからもぼくにいろんなアートの知識を教えてね。
そして、一緒にいろんなところへ見に行こう。
リンコ:
OK!
私もまだまだだから、ピエールの問いになんでも答えられるように
うんと勉強しておくわね!
ピエール:
楽しみにしてるよリンコ。
じゃあまたね。
リンコ:
またね、ピエール!
(Fin)
------------------------
3月から続けたこのブログも、今回が最後の回となりました。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
ここで紹介したのは京都にあふれるアートの数々の
ほんの一部です。
みなさんもピエールのように、貪欲に京都のアートに
触れる機会を作ってみてくださいね!
ボンジュール。
この前は狩野永徳(かのうえいとく)、
河鍋暁斎(かわなべきょうさい)について教えてくれてありがとう。
次に知っておくといい絵師は?
リンコ:
長谷川等伯(はせがわとうはく)かな。
安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した絵師だよ。
2010年春に京都国立博物館で展覧会が開催される
ことが既に決まってるんだ。
きっとその頃には大注目されるんじゃないかな。
今のうちに知っておいたらツウっぽいかも。
ピエール:
安土桃山時代といえば、華やかなイメージがするよね。
リンコ:
そうだね。安土桃山時代は、中世から近世へと移り変わる過渡期の時代。
美術作品もそのトレンドやテイストが変化する時期だったんだよ。
今日、長谷川等伯が高い評価を受けているのは
落ち着いた印象の「松林図」と
きらびやかなイメージの「智積院障壁画」という
まったく雰囲気の違う2つの作品の存在から
きているといわれているよ。
それはやはり、中世から近世へ変化する
時代が生み出したものだったんだ。
ピエール:
そうなんだ。
でも、安土桃山時代に活躍っていえば、
永徳もそうだったよね?
2人は同じ時期に活躍していたの?
リンコ:
そう、当時絵師のツートップだった2人は
まさにライバルだったのよ。
30代で能登から京へ上った等伯は、長谷川派を形成して、
永徳のライバルとして天下人の御用を激しく争ったの。
ピエール:
2人の才能が同じ時期にぶつかりあったんだ!
すごくドラマチックだね。
でも、ライバル同士だった2人は最後どうなったの?
確か永徳は48歳という若さで亡くなっていたよね。
等伯はどうだったの?
リンコ:
実は永徳が亡くなる直前に、
2人が激しく争ったというエピソードが残っているのよ。
それは永徳が中心になって行っていた御所の障壁画の仕事に
等伯が割りこもうとしたことからはじまったんだけど、結局永徳が勝ち取ったわ。
でも、そのわずか1ヶ月後に永徳は48歳の若さで急死してしまうのね。
一方、御所の仕事を獲得しそこなった等伯は、
永徳の死後、豊臣秀吉から、3歳で亡くなった秀吉の子・鶴松の菩提を弔うため
大きな障壁画の仕事を託されたの。
これによって長谷川派の勢力は、一時狩野派にとって代わったかに見えたんだけど
障壁画が完成した直後に、等伯の息子の久蔵が26歳の若さで亡くなってまったのよ。
その後、長谷川派では有能な後継者が育たず、
狩野派のように幕末まで続く大画派を確立することはできなかったの。
ピエール:
じゃあ2人の間に明確に決着というか
明確な勝ち負けがあったわけじゃないんだね。
リンコ:
そうね。そういうことになるかしら。
でも本来、芸術に優劣も勝敗もないと私は思うわ。
どんなものにも、そこにしかない魅力というのが備わっているものだし
結局見る者の感性が大きくかかわってくるもの。
だから、私はこうしてピエールに京都で触れられるアートについて
話をしてきたけど、やっぱり最後は自分の目で見て
美しいと感じたものをそのまま信じるべきだと思う。
そういう意味では、話をきいたあとに
すぐにそれを見に行くピエールは
すごく正しいアートの楽しみ方をしていると思う。
ピエール:
そうかな?
ぼくはただ、リンコの話を聞いているうちに
いてもたってもいられなくなるだけだよ。
そして、リンコがぼくにくれる
知識は、アートの世界を広げてくれるんだ。
アートを感じることも大事だけど、やっぱり知識があって見るのと
まるで何も知らないままただ漠然と見るのでは
感じ方だって変わってくると思うんだ。
リンコ:
もちろんそれはそうね。
ピエール:
そうさ。
だからリンコ、これからもぼくにいろんなアートの知識を教えてね。
そして、一緒にいろんなところへ見に行こう。
リンコ:
OK!
私もまだまだだから、ピエールの問いになんでも答えられるように
うんと勉強しておくわね!
ピエール:
楽しみにしてるよリンコ。
じゃあまたね。
リンコ:
またね、ピエール!
(Fin)
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3月から続けたこのブログも、今回が最後の回となりました。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
ここで紹介したのは京都にあふれるアートの数々の
ほんの一部です。
みなさんもピエールのように、貪欲に京都のアートに
触れる機会を作ってみてくださいね!